変わらぬ美味しさを求めて。

戎大黒本舗の〈粟おこし〉について

 

創業から90年_____。

戎大黒本舗は大阪銘菓〈粟おこし・岩おこし〉を作りつづけてまいりました。

 

その食感や風味は、長年の経験と技術に培われた"匠"ともいえる職人たちの手と真心により、伝えられてきました。

 

天下の台所であった大阪の歴史と文化の息吹が育んだ"大阪が誇る、とっておきの味"を、ぜひ土産としてお持ち帰りいただき、ご堪能くださいませ。

粟おこしの出来るまで


◎粟おこしの歴史

おこしの起源は、記録に残されているだけでも古代までさかのぼります。

「乾飯(蒸した米を乾燥させたもの)」を蜜で固めたものを、"農作物が多く実りますように"と願いをこめて神々にお供えしたのがはじまりとされています。

 

室町時代になると、貴族たちにより「お菓子」として食べられるようになります。

 

そして安土桃山時代、日本を統一した豊臣秀吉が大坂城を築いたことで、大都市・大阪の発展がはじまります。粟おこしは"身を起こし、家を起こし、国を起こす"、立身出世や国の繁栄に縁起のよい菓子としてひろまっていくこととなります。

 

江戸時代の中期、大坂は〈天下の台所〉と呼ばれ、年貢として納められた米が日本全国から集まるようになっていました。

そして「米・飴・砂糖」が入手しやすくなった大坂で、大坂人たちの創意工夫により米を細かく砕いて粟のように仕上げた"米をつかった粟おこし"が生みだされ、大坂の名物となっていきました。

 

近代になって以降も、陸海軍の非常食としても用いられたり、鉄道が開設されたことで大阪への交通網が整ったことで、粟おこしは大阪銘菓の代表として日本全国のお客様へ親しまれるようになりました。

江戸時代の大坂

〈増修改正摂州大坂地圖〉

江戸時代の大坂


◎古文書が語る、おこしと大坂

平安時代中期、承平年間(931年 - 938年)に成立した辞書【和名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)】に「文選注云、粔籹、巨女二音、和名於古之古女、以蜜和米煎作也」とあり、粔籹(おこしめ)として、おこしの原型の記述が見えます。

江戸時代後期に喜田川守貞が三都(江戸・京・大坂)の風俗や文化について著した書物【守貞謾稿(もりさだまんこう)】にも、おこしの記述があり「粔籹おこしめ、古来より有之、和名抄(前述の和名類聚抄)に”粔籹以蜜和米、或曰粔籹は餅米を煎て水飴にてこねかため、今世は糯米を蒸して日に晒し、干いゝとなして後、水飴と砂糖を以て煉之、筥に納れさまし、拍子木の形に截る”。今は近国西国に其名高く繁昌して今に存す。粳を蒸して干飯となし、これをひきて小米糒となし、飴と砂糖の上品を撰み製す。故に堅きこと石の如し、号けて岩於古志と云ふ」とあり、
おこしが平安時代から存在し、江戸時代には「米を用い水飴と砂糖で固めて拍子木状に成形する」という製法でつくられていたことが分かります。

 

おこしの記述がある古文書

右 〈和名類聚抄(平安時代)〉
左 〈守貞謾稿(江戸時代)〉

◎粟おこしと〈天神さん〉菅原道真の伝説

平安時代、優れた文人・政治家であった菅原道真公が政治の争いに敗れ、京の都から九州・大宰府へ左遷される折、船を待つため立ち寄った大坂・難波津にて、道真公に同情した者が菓子(おこしの元になったもの)を献上すると、大変お喜びになり「この菓子を後世に残すべし」とお告げになりました。

 

そのときに道真公は菅原家の家紋〈梅鉢紋-うめばちもん-〉の入った着物を与えたことから、粟おこし・岩おこしには梅の家紋が入れられるようになりました。

 

道真公の死後、京の都で原因不明の天変地異がおこったことから、"道真の祟り"を恐れた民たちは、〈天満の天神さん〉として、また学問の神様として敬われ、信仰されるようになりました。

 

そして約1100年後の現在も、粟おこし・岩おこしの包装紙には道真公の梅鉢紋が誇らしく掲げられております。